記憶する体

興味深く、とても面白い本でした。

先天的や後天的に障害を持った方々の身体の研究。

ここには「メモをとる全盲の女性」や、「幻肢痛(失ってしまった手足が感じる痛み)を持つ人たち」が出てくる。

エピソードの中で全盲の読書家の人がいて

。。。

小説で喫茶店などの描写、「店の扉を開けるとカウンターのほかにテーブル席が五つあった」という何気ない描写に違和感を感じると言う。

。。。。

この方は全盲なので、そもそもテーブル席が五つあるとかは分からないので、その情報を「細かい」と感じるのだそう。。

ただ、全盲の方でも当然、喫茶店に入れば、お客さんの会話のトーンやお店のBGMの反射の具合でお店が小さいか大きいかは「雰囲気」で掴んでいてそれは料理や香水の匂いや、座るソファーの感触や、、、とにかく視覚情報に頼っていない「雰囲気」という事なんですね。


反対に僕ら見える人々は、視覚情報に頼り切って鈍感になっているのかもしれないと思いました。


夜だって、街灯や電気が点いてるし、真っ暗で何も見えない中、体を動かす事を全くと言っていいほど経験していないのかもしれない。。


うーん。。これって、、言われたら分かるけど、まったく意識していなかった世界と言うか、あぁ視覚情報がなくなると、、こんな感じを得ていくのか。とまさに目からうろこ。


この本には他にもいろんなエピソードが載っていて。。


病気や事故などで切断してしまった手足をまだあるかのように感じる「幻肢」しかもそれが痛むという「幻肢痛」これは、、脳がなくなった手足をまだ感じていて「動け」と指示を出しても「動かない」から起る痛みなんだそう。


また、ある人はCIDPという体を思うように抑制できない病気にかかり、、それが引き起こす慢性的な「痛み」を、人前でしゃべったり、家族とのやり取りで「分有」した事によって軽くしたり。。


伊藤さんという方が綿密に取材されたドキュメンタリーなので、、

僕の言葉で書くと、、非常に内容が薄く、短絡的になってしまうんですが。。。


なんでしょう。


僕が思ったのは、、

全く次元は違うんですが、、演じる事やひいては生きると言う事も似ていると言いますか、、


演じていても、色んなコミュニティーで生きていても、、台詞や身体の動きや、普段の自分ではない「異物」や「まぼろし」を自分のものとして「振る舞う行為」だとも思うので、。。

準備に時間がかけられればいいんだけど、丁寧に準備できないまま本番や撮影にのぞむと、、その異物が暴れ出して、台詞が飛んで真っ白になったり、変なところぶつけて怪我したり。。


脳の情報のバグ、衝突が起こってるんだろうな。。と


どこか、この「痛み」という「異物」と共存するというか、、「在る」事を「赦す」と言いますか。。


それによって、なにか新しい希望みたいなものが見えてくるんじゃないのかな。。と思うんですよね。


やっぱり、希望や目的がないと気持ちよく生きられないと思うので。。


あたしゃ、そんなこと考えましたよ。


気になる方は是非。




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